それは時として、魔法と寸分違わない効果を発揮する。
私もまた、「誰もが心打たれるような、美しい文章を描けるようになりたい」と
いう初心の気持ちでいることを常に心がけている。
「書く」ことは誰でもできる。
然し、「描く」と意識しながら作り上げた文章は
頭から足先まで舐め回さずとも、全体像からして惹かれるものだと思う。
更に、頭から足先まで舌でじっくり吟味すれば、その繊細な味付けに感動を覚え
るものなのだろう。
文字を意識するようになったのは、東京時代に構成作家の親友と出会ってからの頃。
去る真夏日だった。
「美味しいうどん屋がある」と、近所にあるうどん屋に彼を招いた。
ぶっかけうどんを啜りながら、彼はあるラジオ番組の脚本を見せてくれた。
ベテランのナレータがこれから読み上げるだろう、彼の綴る美しい日本語に、私
は感化された。
脚本をさっと読んだだけで、ナレータの緩やかで温かな声で台詞が読まれる様子
が浮かび上がってきた。
その脚本は、あたかも読み手を熟知しており、ナレータに手を添えるように温か
い言葉で、時の流れを緩やかなものにした。
そして当時勤めていた会社(Webソリューション事業部)に、ある日魅力的な女性
ライターがやってきた。
彼女もまた、文字という魔法を上手に使いこなす、言葉の大ベテランであった。
その時、私もエンジニアの仕事に奔走する傍ら
SEOやら文章校正やら何やらで、日本語と英語に触れる機会が多かった。
そこでも言葉を多く覚え、文章の書き方を多く学んだ。
おかげで、次にお世話になっていた会社の上司からは
「君のメールを見ていると安心出来る。この人になら仕事を任せていいという気
持ちが湧いてくるよ。」と、お褒めの言葉をよく頂いたものだ。
それから時が経ち、あるグループ企業とのお仕事で
ある飲食店の紹介文を起こすことになった。
エンジニアという本分を切り離し、仕事に専念した。
やるべきことは明白。
シズルを漂わせつつ、読み手を美味しい料理の世界に引きこむ。
全体をパッと見ただけで「魅力的だな」と印象を与える文章を描けばいい。
然し、クライアントから届いた原稿はひどいものだった。
単語の強さだけを全面的に押し出した、云わばパズルの完成図のようなものだった。
そこで私が(インターネットの上級者なりに)魅力的だと思えるライティングを施
しても、あっちもプライドがあったのだろう。
元々の原稿の前後を削り、真ん中に私の原稿を挟むという荒業をやってのけたの
である。
これに憤りを感じ、何度も打ち合わせをした。
過去に学んだコンテンツ制作のノウハウを活かすつもりで、細かな指示をいっぱ
い出した。
結果、数ある店舗の紹介の中でもよく映える原稿を作ることが出来た。
しかし、私はまだ文章を描くノウハウを寸分しか身に着けていない。
この文章を書いている最中も、俺自身が全体像をイメージしきれていないのもある。
細かい味付けから入り、それから全体を仕上げるという、なんとも効率の悪い、
なんとも主張性のないやりかたである。
更に精進したい。
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